午前9時35分を過ぎた頃、外ヶ浜町の奥平部と言う地区に入ったところで、国道280号線から左に分かれるところに着いた。
朝宿を出てから、ほとんど国道280号線を歩いて来たが、久しぶりに国道ではない江戸時代の松前街道だった道がその先左手に続いていた。
*赤いルートが旧道のようだ。
その左手の道に入ると、すぐに急な登り坂になっていた。
恐らく、、、。
今回浅虫温泉をスタートしてからの三日間の街道歩きの旅の中で、一番急な坂道だった。
それくらい、これまでのルートでは平坦な部分が多かった。
浅虫温泉からの道中では途中何か所か緩やかなアップダウンはあったが、この先の道はかなり厳しかった。
その道は車も走っていないような感じの道で、道の両側は野草がぼうぼうに生えていて、もちろん民家のような建物など一軒も見ることはなかったが、その登りの道を進んで行くと、漸く平坦なところに出た辺りで、左手に突然、廃屋のような建物が現れた。
その建物への入口部分には門のようなものがあったのでよく見ると、そこには「今別町立開智小学校校舎跡地」と刻まれた石碑が建っていた。
それを見て、ちょっと驚きだった。
それは、こんな坂道の上に小学校の校舎が建っていたと言うことがひとつだった。
地震が発生した際にはこのような高台に校舎があると言うことは安全面から考えればそれはそれでいいんだろうが、日常的に小学生が毎日通学するのに適していたんだろうか?と思った。
(しかし、今にして思うと私が通った中学や高校はちょっとした丘の上に建っていて、そこへの登りが結構きつかったし、近所には丘の上に建つ小学校もあるので、こうしたところに建てることはよくあったのかもしれない。)
それにしても、夏場はいいかもしれないが、冬、雪が積もった時にはどうやって通学していたんだろう?
そして、そんな小学校も今は廃校になってしまっていると言うことが二つ目の驚きだった。
調べてみたら、2000年に今別地区にあるこの開智小学校を含む3校を統合し今別小学校として、その際ここは廃校になったようだった。
その後更に2003年、2004年に近隣の小学校を統合して現在の今別小学校となったようだが、旧開智学校から今の今別小学校までは約10キロメートルもある。
この距離を小学生が毎日通学するのはさぞや大変だろう。
しかしこれが現実なのかもしれない。
今まで奥州道を歩いて来た際に、朝や午後になってからでも、通学途中の小学生の姿は何度も目にしたし、時々は「こんにちは」とか「おはようございます」とか声を掛けてくれたりもした。
が、今回浅虫温泉を出発してからは、通学中の小学生の姿を一度も目にしていなかった。
いやはや、それを思うと何とも寂しい話だ。
そして開智小学校跡地の前を通り過ぎてからはその先は坂道を下って行って、再び国道280線に合流した。
その合流地点には、赤い大きな岩があって、その近くには「赤根沢の赤岩」と書かれた標柱が立っていた。
調べたところ、その近くにある赤根沢地区では朱色の岩塊が露出していて、一帯30アールが県の天然記念物に指定され、旧跡となっていると言う。
江戸時代にはこの岩から赤い顔料が作られ、日光東照宮や岩木山神社の大堂、山門等の修復にも用いられたと言う。
なるほど、、、。
確かに見事なほどに赤い岩だ。
ところで、江戸時代の道がこのように山の手を通っていたと言うことは、この辺りの海岸近くはかなり厳しい状況だったと言うことなんだろう。
そして、ひと汗、ふた汗、大汗を搔いて再び国道280号線に戻って進むと、左手に稲荷神社の鳥居が何基も建っているのが見えた。
ここまで来る間にも山の手に鳥居が連なっているのを何度か目にして来たが、海岸線をずっと歩いて来て高台に建っている神社が多いように思えた。
それはもしかすると、津波対策なんだろうか?とも思ったが、本当のところはどうなんだろう?
その先砂ヶ森地区を通り過ぎると、道は緩やかに登りになって行って、午前10時の頃、高野崎と書かれた場所に着くと、右手は広場のようになっていてその奥には建物が見えた。
そこはちょっとした観光スポットになっているようで、飲食店のような建物が2~3軒あって、トイレも備わっていた。
時間的に開店間際のようで、開店準備をしているような人の姿もあった。
そしてその建物の一角に無料休憩所があったので中に入ってみると、冷水が入ったポットとコップが容易されていて「ご自由にどうぞ」と書かれていたので、これは天の助け!と思って、喉を潤そうと思ってポットを手に取ってコップに冷水を注ごうと思ったら、、、。
中に入っていたのはまだ氷の塊で、ほとんど冷水は流れ出て来なかった。
来るのが少し早かったようだった。
それで止む無く、そこではトイレを借りるだけにして再び出発することにした。
その先は特に何もない山間の道を進んで、今度は下りになって行った。
坂を下って行って平坦な道に出ると、その辺りは「袰月」と言う地区のようだった。
その先左手に赤い鳥居が建っていたが、その手前のところに「史跡 伊能忠敬止宿」と書かれた標柱が立っていた。
何と、あの伊能忠敬大先生がこの地に宿泊していたとは!?
まぁ、考えてみれば毎日どこかには泊まっていた訳だから、こうした場所があっても不思議ではないだろうが、その場所がこうして残されていると言うことが驚きだ。
いや、それにしても伊能大先生の足跡に触れることが出来たようで、何だか嬉しかった。^_^;
その先で「外ヶ浜(三厩)14km」と書かれた標識があった。
朝宿を出発してから11キロメール歩いて来たことになる。
その頃時刻は午前10時半頃だった。
3時間で11キロメートルか、、、ちょっとペースは落ちて来ているのがわかった。
そのすぐ左手には、今度は大きめの祠があって、それはガラスの引き戸がある変わった祠だった。
しかしこれならお参りしやすいだろう。
外には花も生けてあって、日常的にお参りが行われている様子が伺えた。
その先は海岸から少し離れ、徐々に登り坂になっていった。
その先右手には「袰月海岸」と書かれている場所があった。
そこは真下に切り立っていて風光明美なところのようだった。
その先大泊地区に入ったところで、旧道は国道280号線から右手に分かれた。
そこからは下り道になっていて、下った先に集落があった。
すぐにその集落を過ぎると、、、。
下った後は登り道で、登った先で再び国道280号線と合流した。
すると、その先右手の草木が多い茂る中に「旧松前街道~」と書かれた標柱が立っているのを見つけた。
どこのどなたが書いたものか知らないが、何とも嬉しい気持ちがした。^_^;
そしてその先は暫くまた海岸線の道を進んだ。
時刻は午前11時20分を過ぎた頃だった。
・・・
以下、続く・・・。